豆の記 ~煮ル、食ス、満ツル~ その6 豆とオニと 色とヒトと
昔々、丹波国大江山(京都府福知山市)に鬼の棲むお山がありました。
鬼の大将、酒呑童子は火付け、強盗、人さらいと悪行を重ねましたが、源頼光ら武士によって退治されました。
頼光の家来には、「マサカリ担いだ金太郎」こと坂田金時も加わっています。
そもそも「鬼」とは何ものなのでしょう。
元来、「鬼」という言葉には「悪」「非道」などといった意味はありませんでした。
定義が難しいのですが、「畏れの対象」または「神様に近い存在」という意味合いもありました。
さて酒呑童子ですが、土地の人々には、このような話が言い伝えられてきました。
――鬼に横道なきものを!
童子は「我らが何をした!」「なぜ殺されなければならないのだ!」と息絶えたというのです。
そして頼光たちは気づきます。
――酒呑童子は鬼ではない。人である、と。
頼光たちは手柄のために、牛の首を「鬼の首」に仕立て上げました。
彼らに恥やわだかまりなどありません。
むしろ一連の行為にはある種の誇らしさや清々しささえ感じます。
「鬼」と呼ばれるのにふさわしいのは童子ではなく武士のほうだったのかもしれません。
武士の台頭する世の流れとともに、鬼たちは神の力を失いました。
そして現在、私たちが知る鬼の姿―半裸で原色、毛むくじゃらの体と角、金棒や虎パンツなど―が定着していくことになるのです。
福は内へ いり豆の今夜も もてなしに
拾ひ拾ひや 鬼は出(いず)らん
宗長
宗長は、駿河国(静岡県東部)生まれの旅する連歌師で、織田信長の父、信秀に連歌を教えたことでも知られます。
鬼が豆を見て「これはもてなしか」と拾って食べていくうちに家から出て行くという楽しい歌です。
豆類を二つのグループに分けると、炭水化物が主体で脂質が少ない豆(小豆、いんげん、えんどう、そら豆など)と、その逆で植物油としても利用される脂質主体で炭水化物が少ない豆(大豆、落花生など)になります。
どちらもタンパク質をはじめ、ビタミン、ミネラルが豊富に含まれ、現代の食生活では不足気味となっている食物繊維は芋や根菜類を上回ります。
また、あずきには生活習慣病の要因となる活性酸素を除去する成分、抗酸化物質であるポリフェノールも多く、赤ワインを越えるともいわれます。
我が国において小豆の名は『古事記』に初めて登場しますが、その歴史は縄文時代まで遡るとされています。
古来より、赤は太陽や火、血液など生命を象徴する色として「魔を払う神秘的な力がある」と信じられてきました。
小豆の赤は邪気を払うとして、中国の風習が取り入れられ、平安時代には1月15日の小正月に小豆粥を食するようになりました。
赤飯は、赤米を蒸したものを食しました。
赤米とは、縄文時代に大陸から伝わってきたインディカ種であり、赤く炊き上がります。
邪気祓いの力があるとして、神様に供える民間風習がありました。
庶民の多くは赤米を江戸時代に入るころまで食していましたが品種改良に伴い、美味で収量が安定する現在のジャポニカ種に変わってきました。
しかし、ご飯(の赤)を供える風習は根強く残ります。
そこで江戸時代中期ころから白米を小豆で色づけしたものが、お赤飯として現在に至ります。
ちなみに小豆に砂糖を入れて出来る「あんこ」は室町から安土桃山時代に作られたようです。
南蛮貿易によって砂糖が輸入され、茶道の流行を通した菓子文化が上流階級を中心に普及していきました。
かつて家族の節目とともにあったお赤飯ですが、「ハレの日のもの」という感覚は失われたかもしれません。
お酒がいつでも呑めるように「ハレ(祝い事)」と「ケ(日常)」は区別されなくなりました。
「ケ」のいとなみと、「ハレ」のよろこびを…。
おおきいかめ ゆうら ゆうら
ちいさいかめ ぴいら ぴいら
ごっつん!
絵本『おおきいかめとちいさいかめ』
大きい豆と小さい豆。
本日は小豆(あずき)のおはなし、でした。
栄養士 杉井 もえ
栄養士免許取得後、料理撮影アシスタントに。
その後、珈琲会社で輸入食材販売を担当。
あるひと夏レタス畑にて働く。仲居になる。
病院栄養士退職後、豆とスパイスに目覚める。
現在、自宅で豆を煮る日々。